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アニメビジエンス編集部からのお知らせ、また本誌からの記事の一部や、誌面スペースの関係でカットされた記事などを掲載しています。

2015.10.09 | PICKUP

丸山正雄のアニメバカ一代記【第7回】

類い希なる天賦の才をもつ“純”な男、村野守美のこと

自然が彼の才能を育む

むかし男ありけり、名を村野守美という。村を美しく守るである。本名は村山守、佐藤守。何と奥ゆかしい名であることよ。さながら黒澤明の名作『七人の侍』の三船敏郎演じた豪放磊落な菊千代と、木村功演じたナイーブで繊細な勝四郎を、ひとりで2人分演じたような人生を送った男。今回は彼の話をしよう。

村野は昭和16年に満州で生まれた。昭和16年はりんたろう、富野喜幸(由悠季)、真崎守、北野英明、明田川進、八巻磐、かく言う私、丸山正雄となぜか虫プロで席を一緒にした男たちが一斉に誕生した年である。村野は4歳で満州から引き揚げる時、集合場所の小学校の窓から転落、瀕死の状態のまま戸板に乗せられ日本に到着した。そのまま佐世保の病院に入院して一命はとりとめたが、下肢は一生動くことはなかった。その後、佐世保の病院から母親の故郷の福島の田舎に移動して、幼少期を過ごす。村野は身体不自由児であったことを最期までほとんど語らなかったし、他人にそのことを語られるのも由としなかった。彼は物心ついた時からその身体だったので、それが当たり前で、他人の思惑が入る余地などまったくなかったのだ。同情や余計なお節介は迷惑なだけだったはずだ。精神は健常者(いやな言葉である)とまったく同じなのに何かが違う、その苛立ちは、他人の応対によっては時折噴出することになる。彼と出会った一部の人は、彼の暴力的で苛立つ“男”の部分を目撃する。

動くこともできない村野少年は、家の隅っこで邪魔者扱いされ、ただ置いておかれるのが普通だったが、彼をこよなく愛したおじさんが、野良仕事のついでに田んぼのあぜ道まで連れ出してくれたという。ここで彼は桜の花びらの散る様に酔い、タンポポの綿毛の飛ぶ様に心開かれ、目の前を飛ぶトンボや足下に跳ねるびっき(蛙)を友とした。さらに雨風に曝されることに、真っ赤な夕陽が沈んだあとに訪れる漆黒の闇にたったひとりで向き合うことを覚える。村野にとって会津は懐かしい温かい永遠のふるさとだった。会津っぽの彼は、宮城生まれの私を仙台藩の裏切り者と決めつけてよくいじった。そして神は彼に絵心の天賦の才を与える。村野守美の誕生である。

 

漫画家へ、そしてアニメの世界へ

漫画家を志した村野は、自作を出版社に持ち込む。マンガがまだ市民権を得ていない時代、あの身体で出版社に持込みをするその熱意は想像に難いものがある。そして1960年『弾丸ロンキー』でデビューする。私の一番好きな村野作品『オサムとタエ』『草笛のころ』『草笛の里』『花梨の実』は、そんな福島の風景が横溢している。私と村野はちばてつやや馬場のぼるが大好きだった。これからの漫画家で、村野やちばてつやや馬場のぼるが想いを込めて描いた野山の風景を、作中に取り上げられる作家が果たしているのだろうか? 不安になってしまう。村野はただの昔の男になってしまうのだろうか? 不安になってしまう。

150410_01彼は木の切り株を描くとき、必ず蘖(ひこばえ)を描く。彼の目はついつい見過ごしてしまいそうな些細なことをしっかり見つめる。そう、切り倒された切り株の脇からも新しい生命が生まれていき続けているのだ。そんな自然の節理を身体で、脳味噌で受け止めている。小編ではあるが『独眼左近』を見よ、山中貞雄の丹下左膳へのオマージュは明らかである。また、正義を徹底的におちょくってしまった『スーパーマンの息子』や、牙を失って血も吸えない、従ってまったく力を持ってない、ただ愛だけで生きている『マイ・ドラキュラ』など、村野が武張った偉そうな男を主人公にすることは皆無だった。彼のもうひとつの代表作に『垣根の魔女』がある。そのユーモアと愛おしい庶民感覚、そのヴァイタリティを見よ!

さて、ここで村野のアニメのことを語ろう。それは1960年漫画家としてデビューしたての彼のボロアパートに、黒塗りの車が横づけされたことに始まる。洒落た背広姿で手塚治虫のマネージャーを名乗る今井という男は、「先生がアシスタントとして君を指定している」という。怖いもの知らずの彼は、とりあえず会ってみることにした。すると、手塚先生は彼の身体のことにまったく興味のない人種であることがすぐにわかった。彼はそのまま快諾する。とは言え、アシスタントとはいうものの“臨時”である。ちょうど手塚先生が漫画とアニメの掛け持ちで最も忙しくなっていく時代だ。

そんな中、村野も漫画家として認められ始めていながらも、ディズニーアニメ『白雪姫』の姫の優雅な動きと、七人の小人の軽妙な動きに魅せられていた。それを知った手塚先生は東映動画の入社試験があることを教え、村野はその試験を受けて見事合格する。しかし手塚先生は彼をすぐに呼び戻す。急に自分のアニメ制作会社・虫プロを設立することになったのだ。あとでギッチャン(杉井ギサブロー)に聞いたことだが、先生が村野をよろしくと言ってきたのだという。自分が納得しないと梃子でも動かない村野は「手のつけられない乱暴者だったのでは?」と私が聞くと、ギッチャンは「懸命にアニメを覚えるいい生徒だった」と言う。そうなのだ、手塚さんにしてもギッチャンにしても、しっかり彼を見据えてくれる人に対しては、村野は温厚柔順だったのだ。しかし虫プロでの団体行動は彼には合わなかったらしい。虫プロを退社し、一緒に出た人たちと「アナグマ」という日本初(?)の個人プロを作るが、結局はアナグマも解散して個人に戻る。

村野は1968年、虫プロの『佐武と市捕物控』に、同年代のりんたろう、真崎守に乞われて参加する。私はこれが日本のアニメ史上に残る歴史的実験的娯楽作であると確信する。それまでの細く丁寧に引かれたトレス線で描かれたアニメとはまったく異なり、“ぶっとい”トレス線で描かれた絵の動きが暴れる(もっとも動きは極端に押さえられ、髪の毛のなびき、風に翻るマントなどが印象的な、後に劇画調アニメと呼ばれる手法の作品)、りんたろうの演出力・真崎守の構成力・村野守美の画力があって初めて成立した奇跡としか思えないものだった。しかしここでも、ものの枠に収まりきれない村野はチームプレイに、はまらずに脱離する。後に三人のゴールデントリオが復活するのは、1985年の丸山プロデュースの角川アニメ『カムイの剣』(監督:りんたろう/脚本:真崎守/キャラクターデザイン:村野守美)、約17年後のことである。

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『ユニコ 魔法の島へ』は村野そのもの

1983年、私がマッドハウスで手塚原作の『ユニコ』を作ったのを観て、村野が話してくれた“俺のユニコ”が無茶苦茶面白く、私もどうしてもそれでやりたくなり、劇場映画として製作することになった。当然、村野のオリジナルである。ところがどういうことなのか絵コンテを見た手塚先生が、「これは僕のユニコでありません」と言い出した。たしかに村野のユニコは、手塚原作を丁寧にフォローした平田敏夫×杉野昭夫による『ユニコ』の何やら悲壮感すら感じられる可憐なユニコとは、育ちの違いを感じさせるものだった。しかし、手塚先生も村野も言い出したら簡単には引かない。間に挟まった丸山が心労(?)で入院したと知るや、根が優しい手塚先生は「好きにやりなさい」と許可をくれ、丸山は安堵、病院は二泊で済んだ。こうして村野原案・脚本・絵コンテの劇場映画『ユニコ 魔法の島へ』に着手することになった。挿入歌である森山良子作曲の「ドレミファララバイ」も村野の強い要望だった。『ユニコ 魔法の島へ』は、どこを取っても村野守美である。悪役ククルックは、まだ使えるのに捨てられた人形が地の果てに流れ着いて、憎悪で固まったものだ。ククルックがユニコの癒やしの力にあらがえず、「そんな優しい言葉は言わないでおくれ、身体が溶けていってしまう……」と語る。その反語に涙したのは私だけだったのだろうか?

村野は『佐武と市捕物控』で新人アニメーターの杉野昭夫に注目したように、『ユニコ 魔法の島へ』では川尻善昭のアニメーターとしての能力を高く評価した。1982年、ジョージ秋山の『浮浪雲』を作った時、映画本編とはまったく違ったテイストで、龍馬暗殺のシーンを村野と川尻の二人だけで作ってもらった。近江屋に走り寄る刺客。そして扉を開けて中へ。一瞬黒い何かが動く。屋内に踏み込む足のインサートだ。「これは見えない、意味がない」とわめく川尻に、村野は「判らんでいい、間だよ、間」と取り合わない。そんな村野と川尻の緊張感が何とも心地良い。ほんの十数カット数分のシーンだったが、赤と黒だけで彩られた暴力的とも言えるシーンは、その後の川尻善昭の運命を変えることになった。

村野贔屓で彼の仕事場に入り浸ったのはいつ頃だったろうか。もちろん仕事ではなく麻雀の面子が足りないと呼び出されるのだが。私は村野が1971年に「ガロ」に連載した『ほえろボボ』という作品を、どうしてもアニメにしたかった。麻雀の勝ちぶんで原作権を獲得した(笑)。捨てられたチビの野良犬が野良犬の大先輩ノラおじさんと出会う。頑固でやんちゃでわがままで自由奔放なノラおじさんは、そのまま村野の投影だった。なのに悲しいことに『ほえろブンブン』と改題されたアニメは、私にとって唯一悔恨する作品となった。やはり麻雀での原作権獲得は邪道だった。あれは若気の至りというやつだ。キャラクターがかわいいので、なんとかなると突っ走ってしまった。NHKの『リトル・チャロ』を見るたびに、「そうだこういう風に作ればよかったんだ」と泣けてしまう。今頃になってその訳がよくわかる。原作が未完なのも、なるほどと思える。行ったこともないニューヨークを舞台にしたこと、主人公が実は血統書つきの生まれだったこと……東北の田舎者を誇っている“血統書くそくらえ”と喚いてる我々には無理な設定だったんですよ、村野君。

 

絵に生きた凝縮された生涯

アニメを続けたかった村野だが、糊口を凌ぐには漫画の仕事を優先しなければならなかった。『媚薬行』『秘薬淫薬』『秘戯御法』など大人のお色気たっぷり、遊びごころたっぷりの作品、『だめ鬼』『泥沼』『龍神』『どっぺんぱらり』などの日本のむかし話はもっとも得意とする世界だ。さまざまな世界に挑戦して、ついに村野は最も描きたかった、そして彼しか描けない世界にたどり着く。藍染め、和竿、宮大工、紙漉師、蒔絵師……失われつつある手仕事を頑なに守り抜く職人たちを描く物語の数々は、私には村野守美の遺言にも思えるものだった。

最後にタエちゃんのことを書こう。『オサムとタエ』のタエちゃんのことだ。村野の漫画に出てくる可愛い女、いい女の名前は、すべて“タエ”“たえ”“妙”である。タエこそ村野守美の初恋の人であり生涯の伴侶である。20歳そこそこの村野が、まだおさげ髪のタエちゃんを見初めた。それからというもの、今で言うストーカーのうようにプレゼントを手にして日参する。その情熱は4年以上も絶えることはなく、やっとセーラー服を脱げるようになった時、タエちゃんは周囲の大反対を押し切って駆け落ちという古式豊かな行動に出る。こんな純情を絵に描いたような日本の男は、私は「寅さん」以外は村野しか知らない。恋において寅さんは永遠のアンハッピーだったが、村野はタエちゃんを獲た。

 

結末を語ろう。2011年3月4日タエちゃんの誕生日を祝い、3月7日村野は心不全で息を引き取った。タエちゃんに見守られながら。葬儀を予定してた3月11日、彼を育んだ田舎の福島を例の大津波が襲った。 むかし男ありけり、名を村野守美という。

 

[PROFILE] 丸山正雄 Masao Maruyama

1941年、宮城県生まれ。1965年に虫プロダクションに入社後、1972年に出﨑統らと共に有限会社マッド・ハウスを設立。アニメ業界の黎明期からプロデューサーとして活躍しているひとり。

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