季刊だと思って軽く引き受けて早くも難産。の新連載だが、第1回は執筆中にネットの話題を独占の観がある「表現規制」を考えてみよう。コミケも近いしさ。
きっかけはまたしても議員立法である。児童ポルノ法(児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律)の改正案を近く国会提出するというのだ。内容は、児童ポルノ(児童の性交やその類似行為、性欲を刺激する裸の姿態など)について、従来は禁止されていなかった単純所持を禁止し、「性的好奇心を満たすための所持」には罰則を設けるというもの。これ自体にも議論はあろうが、筆者は賛成だ。ただ、附則に気になる一言があった。
「児童ポルノに類するマンガ・アニメなどについても、3年を目途に児童の権利侵害への影響を調査し、必要な措置をとる」というもの。かつての立法論議や東京都青少年条例でも問題となった「非実在」のマンガ・アニメキャラについても児童ポルノとして規制する可能性を持ち出したことになる。
これに日本漫画家協会、日本アニメーター・演出協会など が猛反発し、ネットでも反対意見が広がった。「本来の児童ポルノは児童への性的虐待の直接の成果物。それを規制することと、想像の産物であるマンガやアニメ表現を規制することをなぜ一緒に持ち出すのか」といった意見だ。
正論だろう。この法案の最大の問題は、およそ最も座視できない事態である「実在の児童への性的虐待」と、それとは全 く異なる原理が及ぶ「純然たる創作表現への規制」をひとつの法案に盛り込んだことである。
では、創作表現を支配する原理とは何か。それが他者の人権を直接に害さない純然たる創作表現にとどまる限り、権力は極力その内容に介入するな、ということだ。
なぜ介入すべきでないのか。よく聞く言説は「エロにも良い作品がある。真面目な作品ばかりだったらつまらない」というもの。なるほどそうだろう。だが筆者は、「良い作品もあるか」と表現の自由は何の関係もないと思う。むしろ、良い作品・傑 作もあるから規制するなというのは、悪い作品だから規制しろという意見と同じくらい危うい。
なぜか。
今の世代には、未来の世代のかわりに作品の良し悪しを判断する権利も資格もないからである。ナチスに退廃芸術として 迫害されたクレーやブレヒト、赤狩りでハリウッドを追われたチャプリン、そして永井豪。その時代が評価できず、禁止さえした作品が後世に圧倒的影響を及ぼした例など歴史上枚挙に暇がない。
「傑作もあるから守ろう」ではない。「悪趣味で大キライだが権力が規制するなら全力で反対する」という点にこそ、表現の自由の真骨頂はある。
ただし、表現の自由を言うからには我々には果たすべき責務もあると思う。そうでなければ表現規制は今後も形を変えて現れるだろう。
何かと言えば、行き過ぎだと思う作品はちゃんと社会が批評・批判することだ。時折、規制に反対すること=対象をほめること、といった論調に出くわすことがある。だが自由な批評が闊達におこなわれて作品の評価が確立され、悪趣味だとみなされれば多くの人にそっぽを向かれる。このサイクルが機能してこそ自由な表現を守るのである。
もうひとつ。ゾーニングやレーティング、実態把握のような自主的な取り組みを続けることだ。刺激的な表現で不快に思う人がいることは正面から認め、判断力の乏しい児童が親のガイダンスなく入手できたり、避けたいと思っている人の目に予告なく飛び込んで来るような事態は避ける。この社会的論評と自律が機能しなければ、規制論は今後も繰り返し頭をもたげて来るだろう。
そしてこれが、「アニメビジエンス」に本稿を書く意味でもある。世界では今でも無数の子供たちが性的虐待にさらされ、時に一生の重荷としてその体験を背負って生きる。生きられる 人間はまだ良い。重荷に耐えられず、命を絶つ者さえいるのだ。
表現規制の議論は世界中にある。性的虐待の実態に想像力と関心を持ち、自分達はどんな考えで、どんな取り組みをしながら 創作を続けているのかちゃんと説明できること。アニメが世界で戦う上では、そうした説明責任がこれまで以上に求められるだろう。
<PROFILE>福井健策[Kensaku Fukui]
弁護士(日本・ニューヨーク州)、日本大学芸術学部客員教授/1991年東京大学法学部卒。
米国コロンビア大学法学修士。現在、骨董通り法律事務所 代表パートナー。
Twitter: @fukuikensaku